東部市場前

過去から来た猿

PUELLA MAGI MADOKA MAGICA THE MOVIE Part I: Beginnings.
悠木碧の舞台挨拶目当てで。チケットを分けてくださったt氏には感謝。

怒りは持続しない。よって存外にフラットな面持ちでの鑑賞に終始した。することはといえば伏線の答え合わせ、キャラクタの顔面パーツの観察、複数パタンの魔法少女自意識のありよう(後述するが実際こう呼ぶのが適当に思える)と虚淵玄の詐術の検討。

前提。管見の限りでは総集編そのもの。よってこのエントリはテレビ版の再検討とみて概ね差し支えなし。
地形効果(イレギュラ)。劇場の大画面では正視に耐えないカット多し。見せ場の変身シーンを除いて画面の情報に乏しいので劇場アニメ特有の脳が過負荷に悲鳴を上げる快感は無い。悠木碧ボイスは場内を反響し耳を劈く(劇場では声が通りづらい?ので工夫して演技したとは舞台挨拶時の談だが)。後藤邑子は別録りに聞こえる。OPがまどほむ。よい。
伏線について。これはどうでもよい。おじょうず。マミさんの起源がカットされていた。畢竟杏子は友達が欲しかっただけというのがよくわかる。
顔面パーツについて。やはり二重輪郭線は耐え難い。蒼樹うめはクールビューティな美少女をデザインするのが苦手と見えて、真正面からのほむらのカットは恐ろしいことになっている。仁美は世俗的美人=二重プラス睫毛カールだがほむらは観念的美少女=豊かにかきあげられる黒髪ロング。
魔法少女自意識。語られるのは起源と経過、そのありよう。各人に固有の事情があり動機があり、おのおのに育て上げた自意識が魔法少女としての肖像を規定する。息苦しい括り方。近代的人間がどうたらこうたら。魔法少女くらい好き勝手に成ればいいんじゃねえの。結局マミさんも杏子もガキのまんまなんですよ。
詐術について。恣意的操作。展開に臣従するキャラクタと世界観。たとえば仁美が最低限の仁義を切って筋を通すことでさやかを追い込むように、あるいはたかだか一個体の主観における希望と絶望の平衡を「思春期の少女のエモーションは尊い」との信仰を媒介に宇宙の熱的死へと接続するように。内面の閉塞感の投影としての外部=均一な宇宙。スケールの転換は巧みに鮮やかであるがゆえに立ち止まってみれば明らかである。リソースの話をされるのにはもう飽き飽き、と言い続けてもう何年になるのかも思い出せない。

その他。
鹿目家について。パパにエプロン着せてママにキャリアウーマンやらせりゃいいってものではない。後藤邑子に非はなかろう、それはそれとして起用の仕方は端的に鼻につく。
マミさんの肉体があらゆる観点から性的にしかみえない。えろい。
理性は女子中学生に多くを求めるなと囁くのだが、しかし、愚かさは罪であるとさやかを切り捨てたい衝動に駆られる。


舞台挨拶。2列目にて。
水橋かおりについて。せっかくのマミさんライクな恰好に司会が突っ込まないのはあんまりではないか。疲れた顔をしていらっしゃったので心配です。
悠木碧について。シンフォギアのイベント映像(BD1巻)で見込んだとおりの概念度の高さ。ハタチ過ぎてあのありようはほとんど奇跡といってよい。板についた挙動不審と広めに取りがちなパーソナルスペース、コントロラビリティの低さ。月並みな表現を許せば心配で目が離せない感じ。要約すると結婚したい(と言うとき、実際に結婚を想定しているわけではないことはこのフレーズに手を出さずにいられなかったみなさんならお分かりのはず)。二度言うが結婚したい。あおちゃんと結婚したいよ~~
退場時に恥ずかしくて手を振り返せなかったのが心残り。
なお、少年版まどマギの構想(妄想?)をノートに書き連ねているそうです。移動のバス車内で隣席の水橋かおりと、マミさんは薄幸の美少年だのまどかは意外と肉食系男子になるだのの話で盛り上がったとのこと。精神に大ダメージ。2012年とはおそろしいじだいだ……

『TARI TARI』を最後まで。
雨が降ったり上がったりするアニメだったなあと。

リアリティ高めにみえる画面の解像度を裏切るようにときどき脚本の説得力がどうにもゆるくて、意図的に半ば滑らせるような在り方を目指しているにしてもやっぱり画面に馴染みきれていない感があったりもしたけれど(ここらへん結構テキトーなこと言ってる)、各話を通じて色々に反復された旋律の結晶はその手のツッコミを超越してました。
歌の素晴らしさを前面に押し出す話はオレ、蕁麻疹出るんだけどね。旋律のエモさはそういうのもぶっ飛ばして心を揺さぶる暴力。
学園の中庭でピアノ演奏といえばAB!であるわけで、P.A.にとってのKeyとはそのように感得されたものであったらしい、とかなんとか←鍵っ子の妄言

もえーの話をすると、概念的に強度の高い人類に対して凡人がぐわーっまぶしーってなるのが大変にツボなので、まひるに対する教頭が平沢唯に対する秋山澪羽山ミズキに対する彼らと同型にみえてゆかしかったです。まひるは何せ死んでいるので最強であり、和奏も教頭も内心においてシャドーボクシングするしかないのがとてもよい。

高橋しん『雪にツバサ』を4巻まで。これで、サイカノ以降の単行本はおおむね読了済みとなったわけですが、ところで「読了済み」って完了形が重複してませんか?
ステータスを確認しておくと、かつてサイカノを聖典と崇めていたこともあったが先だって再読し克服に成功したので以降の作品を押さえに回っていたところ。なお、『きみのカケラ』はリアルタイムで中途挫折したのでいつか再挑戦したいですね。
『いいひと。』読めよって声が天から聞こえましたがそれは今後の課題として。

シリアスに徹し切れない描き手という印象があって、つらくなってくるとセオリーとしてギャグで崩す。崩すんだけど世界設定そのものの過酷さは依然として温存されていて、笑いと切なさの落差による感情操作で読み手を引き込み、エモがらせるというテクニックが頻繁に活用される。ワンパタだが巧い。何の話かって? ギャグ描写を全部スポイルしたテレビアニメ版サイカノの悪口。

「われわれ」がしばしばわれわれと言いたがる理由、なるものを仮構するならば、まあ主語は大きければ大きいほど気持ちいいというのもあるわけですが、文の主張内容を「私」ひとつにすべて引き受けさせるのがどうにも怖いから、ではあります。自分と向き合ってみた結果、そうした回路が存在することに「なった」。(モバマスの特訓じゃないよ!)
そしてそれはまた、このように考えているのは自分ひとりではないはずだ、という信仰あるいは祈りを予め織り込んでもいる。

だからー!現実なるものをゲームになぞらえることによって馴致しようとする試みはゲームのアナロジーによって捉え切れない対象の複雑さを露わにするばかりで挫折に終わるだけだって言ったでしょおじいちゃーん!

なんかもっとむつかしいこと考えてた気がするけど頭痛が酷くて忘れた。
まあ、人生は広義におけるゲームだけど、ここで言ってるのはそういうことではないというのはわかるはず。