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トリニティセブンのイベント「魔道祭」昼の部の感想。
本格的なイベントに参加するのは初めてのことだったので備忘を兼ねて書いておく。
参加のきっかけ
- TECHNOBOYSプロデュースのEDキャラソンがどれも大変好みにあったので、せっかくなら生で聴いてみたいなと思って
- と言うわりには当のTECHNOBOYSのみなさんの出演を数日前まで知らなかった。結果オーライということで勘弁願いたい
イベント全体について
- 会場が異常に混雑することもなく、進行も全体にスムーズで大変よかった。司会をはじめ、企画パート・朗読劇・演奏ともに場の盛り上げが巧みで、全体として高度なプロデュースが成功裏に終わったという印象
- ↑何も言っていないに等しい
- キャラクターと演者は厳密に区別しておきたいマンとしては邪悪さを感じないでもなかったが
- 最後方の座席だったけども大型ディスプレイのおかげでそんなに苦労せず壇上の様子も窺えた。もっと至近距離から肉眼で出演者のみなさんを見たかった気もするけど、前後左右から野太い歓声に包まれずに済んだために比較的自分のペースでノって楽しめた節もあるのでこの辺りは難しさもある
- これは主にハコの方の功績なのかもしれないけど、照明演出が特に印象的だった。満足感の結構な部分を占める
- アニメファンは視聴覚の刺激に敏感ないきものなのでライブイベントでも同じ部分に反応する
各論
- あやねると同じ空間に存在すると認識した瞬間気が変になりかけた
- りえしょんの異常性があやねる他の出演者によって上手く飼い馴らされてる感
- SHaVaDaVa in AMAZING♪、個人的にはビビッドレッド・オペレーション以来のあやねるりえしょんデュエット曲という歓びもあったし、レヴィとユイのカップリングを(ヘタすると本篇よりも)的確に描き出したコンセプチュアルな歌詞としても評価していて、要するに善いので善い
- ビビッドの頃はイベントには何の興味もなかったので参加しなかった、今頃惜しくなってきたので代替的解決として参加した節もないでもない
- この曲に限らずどの曲も滅茶苦茶歌いにくいので、生でどうにか歌い切っていたキャストのみなさんを尊敬するという気持ち
- SHaVaDaVa in AMAZING♪、個人的にはビビッドレッド・オペレーション以来のあやねるりえしょんデュエット曲という歓びもあったし、レヴィとユイのカップリングを(ヘタすると本篇よりも)的確に描き出したコンセプチュアルな歌詞としても評価していて、要するに善いので善い
- 松岡くんの(われわれの欲望の代替者として)信頼できる感じ。これからも大切にしていきたい(主格の不明瞭な文章)
- 柚木さんのシモ方向の暴走がひどかった。ひとりだけ年が離れてることを意識して、あえて強い方向に振ることで場を沸かせる狙いだとすればクレバーだなーとも思うし、そんなことはさておき単に面白い
- 東山奈央ちゃん天使(ポジション的にややぶってる感じ否めないけどもなお天使)
- 洲崎綾さんかわいかった、個人的にはFLOWERS夏篇で声優としての魅力に気付いたタイミングだったのもあってよかった
- 肝心のTECHNOBOYSのパフォーマンスも最高
- 生演奏のNervous Sightseeingがメチャカッコ良かった
- 声優のトーク、朗読劇でさんざん盛り上げてから、そこまで全く舞台に上がっていなかった&多分来場者の大半は目当てにしてないTECHNOBOYSの登場即演奏、という流れにはちょっとヒヤヒヤするものがあったけど、水準以上の盛り上がりを見せたところをみると、こういうのが客層のよさ、というものなのかもしれない
- 本日結成ユニットTECHNOBOYS SEVENのメンバーことサイトウケンジ氏がちょう楽しそうだった
- 光る棒には大いに偏見があって持参しなかったのだが(というかライブイベントの類そのものに偏見があった)、会場では大半の人が振っていた。なによりただ腕を振るよりもリズムが取りやすそうなので次(小倉唯1stライブ)は備えたい
- リズム感が壊滅的にズレた人間なのでライブに行くと周りの観客と動きが合わずつらい思いをしてきたとのこと
- みんなで大きな声を出して適切に騒ぐことの楽しさ、というのはある
- オタクは街中で集まってウェーイとか言えないのでライブイベントでウェイウェイしている説が提議されました
- ただ単に歓声を上げるのは慣れたけども、演奏の中途で「ハイ!ハイ!」とコールを上げる?のはどうも気持ち悪くてできない
- 言うまでもなく2期制作に期待したい
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『Angel Beats! -1st beat-』の発売日も決定するとともにアニメ版のBD-BOXも発表され、さらにはアニメ『Charlotte』の放映も決定した2014年の年の暮れ、年も明けぬうちから大変めでたい今日このごろ、皆様いかがお過ごしでしょうか(挨拶)。
今年はSSを書いたり書くのをやめたり艦これをやめたり読書をしたりしなかったりしていました。まあ何とか生きてます。
まあせっかくなので今年読んだ本の紹介でも。時系列順です。
- 作者: 新海誠,加納新太
- 出版社/メーカー: エンターブレイン
- 発売日: 2005/12/26
- メディア: 単行本
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端的に説明すると、アニメ版はオールタイムベストで1本挙げろと言われたら間違いなくコレ、という自分の中ではそういうポジションの作品。
ところで新海誠作品のノベライズといったら、『ほしのこえ』のように無難一方だったり『秒速5センチメートル』のように
あくまでもヒロキ視点の叙述によって、時にはアクロバティックな処理を導入してまでアニメ版の話の筋をしっかり追いつつ、要所要所で引用される宮沢賢治の詩(アニメ版序盤の「永訣の朝」にとどまらない)の存在感や、オリジナルエピソードとしてタクヤとの想い出にもしっかり尺を割くことで独自の魅力を獲得している。
(もっとも、この過去エピソードの存在、加えてサユリとの「その後」の始末の描写――これがまた正しく村上春樹的で、著者は本当にいい仕事をした――を踏まえるなら、アニメ版とは別物と見なした方が適当だろう。)
白一色のカバーに銀箔を抜いたタイトル、という取り合わせの装丁もこの作品らしい。当方は古本で入手したのでやや汚れが付いてしまっていて残念。
艦隊これくしょん -艦これ- いつか静かな海で 1 (MFコミックス アライブシリーズ)
- 作者: さいとー栄,田中謙介,C2機関
- 出版社/メーカー: KADOKAWA/メディアファクトリー
- 発売日: 2014/03/22
- メディア: コミック
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特定のモチーフを軸に艦娘をフィーチャーした短編を、その名と精神を引き継いだ自衛艦の紹介で締めるという、まあ言ってみれば艦これファンを海上自衛隊艦船趣味に引きずり込もうという試みは、悪く言えば海自を頼まれもしないのにプロパガンダしちゃう漫画とも取れてしまうわけで、旧軍と海自、この2つの組織の間の建前としての断絶と、その陰にある実態としての連続性の問題にややもすれば触れかねず、太平洋戦争と海軍をモチーフにしながらあれほど巧妙に政治性から手を引いていたゲーム(暁の水平線に勝利を刻む、というフレーズは勇壮でいて、日の丸と青い海以外の何のイメージをも喚起しない)のプロデューサーにしてはやや意外の勇み足、に見えないでもない。
まあそれはそれとして、横に流々と流れる印象のある戦闘シーンの美しさですね。独自解釈を固めることをあんまりせずに、抑制の利いた描写が続くのも好感度高し。
あとモブとはいえ綾波敷波の登場頻度が高いというこれ一点だけで神。メイン回待望してます。
艦隊これくしょん -艦これ- 陽炎、抜錨します! 2 (ファミ通文庫)
- 作者: 築地俊彦,NOCO
- 出版社/メーカー: KADOKAWA/エンターブレイン
- 発売日: 2014/02/28
- メディア: 文庫
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築地俊彦は『まぶらほ』長編パートのしょっぱい魔法バトル展開がどうも印象強く、正直言ってシリアスを書く作家としては全然評価してなかったんだけども、申し訳ありません、私の目が濁っていました。
話の枠組みは言ってしまえば愚連隊更生物、一山いくらの駆逐艦娘の中でもさらに落ちこぼれの奴らが新しくやってきたリーダーのもとで徐々に団結し活躍を見せる、というある種の定番ではあるんだけども、その中で活写されるそれぞれのメンツの個性や想いや何やら、鎮守府のけして派手さのない生活の描写なんかがこう、腑に落ちるんですね。要するに肌に合う。
あるいはまた、二次創作シーンウォッチ的な興味から言えば、曙・潮は明らかにこの作品で人気爆発したように見えて面白い(もちろん両名とも以前から根強い人気はあったし、潮についていえば比村奇石のファンアート活動もそれなりの影響があったような気はするが)。だいいちそれをそう言うなら霰とかもそろそろ人気出ていいのでは。アッハイ。
- 境田吉孝『夏の終わりとリセット彼女』(ガガガ文庫)
- 作者: 境田吉孝
- 出版社/メーカー: 小学館
- 発売日: 2014/05/20
- メディア: 文庫
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クズの自覚がある人なら精神に揺さぶりを掛けられ貴重な読書体験になると思います。
ライトノベルの主人公に俺TUEEEを期待する向きなら読まないが吉。
- 娘太丸『ビビッドレッド・オペレーション The 4コマ びびおぺ』(電撃コミックスEX)
ビビッドレッド・オペレーション The 4コマ (2) びびおぺ (電撃コミックスEX)
- 作者: 娘太丸,TEAM VIVID
- 出版社/メーカー: KADOKAWA/アスキー・メディアワークス
- 発売日: 2014/05/27
- メディア: コミック
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アニメのあの最終回に呆然とし、あるいは釈然としないものを残したすべての人に読んでほしい。
カラス氏をはじめとするいくつかの設定の読み替えがもたらす幸福な結末。
これぞ二次創作。
- 作者: 尾形正茂
- 出版社/メーカー: 学研マーケティング
- 発売日: 2014/06/03
- メディア: 大型本
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当方グラビア全般が(というかリアル人間の画像が)とんと受け付けなく、けれどもこの写真集にはその苦手意識を押しのけてまで買わせる何かが、そして満足させる何かがありました。人はそれを霊感などと呼ぶのでしょう(あるいは気が変になってしまったのだと)。
小倉唯は実に尊い。
- ウィリアム・ゴールディング『蠅の王』(新潮文庫)
- 作者: ウィリアム・ゴールディング,William Golding,平井正穂
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 1975/03/30
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閑話休題。当方、児童文学のあのある種の丁寧さをはらんだ文体が大層好みであるので、そうした文体でこうした話が語られるとこれはもう最高ということになるわけです。
サバイバル小説として語るなら、実のところこれはサバイバル小説ではあんまりなく、何せ食料それ自体はあんまり問題とされない。たんに資源の欠乏から殺し合いに発展する、わけではけしてないところが肝であるなあと思いました。
- 高田大介『図書館の魔女』(講談社)
- 作者: 高田大介
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2013/08/09
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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あえてジャンル分けするなら、初期近代地中海世界風異世界ボーイミーツガール言語学安楽椅子探偵ファンタジー、とでも言えばいいのか。
主人公・マツリカとキリヒトのこそばゆい関係性に胸をくすぐられながら読むもよし、さまざまなレイヤーで、あるいはマツリカをはじめとする登場人物の口を直接に借りて語られ、あるいは章の大枠として、出来事と出来事の連なりによって示唆されたりもする、図書館の、知の体系の前にひれふすもよし。
こう、文章ではうまく魅力を伝えにくい小説であるので、とりあえず読んでくれとしか言いようのないところがある。
(いま調べたら来月にシリーズ新作が出るらしい。歓喜。)
- イザベル・アジェンデ『精霊たちの家』(池澤夏樹=個人編集 世界文学全集)
- 作者: イサベル・アジェンデ,木村榮一
- 出版社/メーカー: 河出書房新社
- 発売日: 2009/03/11
- メディア: 単行本
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当方文体厨ゆえ、語りの豊かな文章であればあるほどよいと思っている節があって、本作はラテン・アメリカの三世代にわたる家族の(女と男の)年代記なんだけども、次から次へと語られる奇妙で面白いエピソードの数々にページを繰る手が止まらなかった。語りの巧さ、なんだろうと。
ただ、結末において彼女が出す「結論」には読後、今に至るまでずっともやもやしたものを抱えたままでいて、ある意味では仏教的もあるその思想の境地は、しかし紛うことなく非人間的な高みであって、しかしそもそも至ってしまった状況が非人間的であるのだからこれに対応するためには非人間的な強度を持った認識で対峙するしかなく、けれどもそれではどうにもならないじゃないか、「問題は解決しない」じゃないかと思ってしまう。
たぶんこの、「問題を解決する」という思考がすでにして西洋近代的な理性の賜物であって、ラテン・アメリカは、マジック・リアリズムはそうではない、ということではあるのだろうけども。
- L・ヴァン・デル・ポスト『戦場のメリークリスマス―影の獄にて 映画版』(新思潮社)
- 作者: ローレンス・ヴァン・デルポスト,Laurens van der Post,由良君美,富山太佳夫
- 出版社/メーカー: 新思索社
- 発売日: 2009/02
- メディア: 単行本
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映画の後に読んだせいもあって、良くも悪くも映画の影響から免れずに読んでしまった節はある。要するにハラ軍曹が出てくるたび、北野武の顔が浮かんで離れない。
短編三部作のうち、一押しは「種子と蒔く者」。どうにも安直にキリスト的なモチーフに寄りかかりすぎているきらいはあるけども、出来た兄――美男に生まれついてしまったがために周囲の期待のまなざしでがんじがらめになってしまった男と、不具だが歌の上手い、繊細な美しさをもった弟の葛藤、離別と和解のプロセスは胸に迫るものがある。
余談ですが、現在新品で手に入る上掲の版はどうもオンデマンド印刷らしく、文字フォントのムラや誤植がそこそこ酷いので、購入する際は要注意。できれば現物を確認してから買うことをおすすめします。
- ジュノ・ディアス『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』(新潮クレスト・ブックス)
オスカー・ワオの短く凄まじい人生 (新潮クレスト・ブックス)
- 作者: ジュノディアス,Junot Diaz,都甲幸治,久保尚美
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2011/02
- メディア: ハードカバー
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いろいろな切り分け方のできる、それだけでも傑作ではあって、デブのオタクでワナビ、にもかかわらず恋多きオスカーの苦しみなんかはまるで他人事ではない(いやホントね)。次から次へと繰り出されるアメコミや小説や映画やアニメのタイトルなんかは一時期流行ったポップな文学の手法を、あるいはオタクネタ漫画なんかの過剰さを連想させる(第1章のタイトルが "GettoNerd at the End of the World "だなんていよいよ出来過ぎでしょ)。
あるいはまた、描写の対象がオスカーから彼の姉、母へと移るにつれて、これは親子関係の不全がもたらす世代間の不幸の再生産としても読めるようになる。ネットジャーゴン風にいえば彼の母は毒親なんですね。娘との苛烈な対立もそうだし(どうもドミニカ人の文化としてそうした風潮があるようでもあるが)、オスカーに勉強を強いる点、あるいは家に篭もろうとする少年期の彼を屋外へと追い出す点なんかは明らかにそう読めて、たぶんそれは本人の思春期の(致命的な)失敗への悔恨から来ている。来てるんだけども、おそらくはその育児方針を原因のひとつとしてオスカーは内向的なオタクに育っている。よくある光景ですね。
しかし、しかし。このように自分の話として、「わかる」「共感できる」話として安直に読める部分もあるんだけども、他方では明白にそうした共感を拒むようにオスカー・ワオは当方の前に聳え立つ。なんとなれば当方は日本人で、彼はドミニカ系アメリカ人であって、アメリカの学校において nerd であることの困難も、そのうえドミニカ系なのに恋に生きず nerd であることの生きづらさも、当方には想像はできても結局のところわかりはしないからだ。
あるいはまた、マジック・リアリズム。ドミニカに伝わる「フク」の呪い(ところで日本語だとフクがどうしても「福」と読めてしまって呪縛感がスポイルされてしまい、つらい)。独裁者トルヒーヨの権勢。こうしたものは当方にとりどこか余所事で、言ってしまえば『指輪物語』にかなり近い水準の、フィクションなのである。
こうした二重性、乖離が、しかして読書体験を豊かにする。「わかる」世界と「わからない」世界の往復と横断。たぶんそこに当方はこの話の深みを錯覚したんじゃないかと思うんですね。
まあつまりどういうことかっていうとだ。みなさん今すぐ書店に走りましょう(3年前の新刊をわが物顔でサジェストする人間)。
- 筒井大志『ミサイルとプランクトン』(電撃コミックスNEXT)
- 作者: 筒井大志,田中ロミオ
- 出版社/メーカー: KADOKAWA/アスキー・メディアワークス
- 発売日: 2014/12/19
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えーと原作田中ロミオなんですね。著者コメントにもあるように初めての漫画原作で苦戦した形跡は序盤の展開のこなれなさに確かに感じ取れます。けれどもそんなことは大した問題ではない。
はじめはC†Cかと思っていたら読み進めるにつれてイマ的でもある、今までのロミオ作品にあった要素を思わせるようなあれこれが違った組み方で提示されるワクワク感。
また、キャラクターフィーチャーなエピソード構成はエロゲーの個別シナリオのようでいてそれだけに留まらず、対象のキャラ格もエピソードの尺も自由に変化させながら進行していく。群像劇的なアプローチの構成を積み重ねていった果てにどんな光景が出現するのか、今からとても楽しみです。
そして眼鏡ヒロイン。ロミオ大好き眼鏡ヒロイン。まあ要するに全ロミオファン必読なんですね。
12作。まあこんなところでしょうか。
実は今年の後半から手を広げて、小説中心に気になる本はなんでも買い込むようにしておりまして、積み本が増える一方でメンタルに大変よろしくありません。本読みってのはこの切迫感と闘う一生なんですかね。
ともあれ皆様におかれましては、来年もよいお年を。
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- 昨日、エヴァについて話したりしたので散漫に再構成。文責は基本的に当方にあります。
- 金曜ロードショーで序・破とやっていたので1,2年ぶりに再視聴。どうでもいいけど本篇の前と後のあのクソっくだらないナレーションは本当に殺意が湧きますね(どうでもよくない事案)。
- で、まあ観てたわけですが、あんまり面白くねえなあと。まあ序ならヤシマ作戦、破ならアスカ様降臨(式波氏は海からではなく空からやってくるんですよ!)をはじめとしていくつか面白いシーンはあるんだけど、全体としてどうもそういう印象が残る。
- なんでだろう、と考える前に「面白さ」を腑分けする必要があって、エヴァの場合、「視聴覚の快楽」「展開の妙」「キャラ萌え」「エヴァの新作であること」の4つに分けられるのかな、と。
- 用語はテキトーです。適切な定義や命名があれば乗り換える用意あり。
- 視聴覚の快楽。序におけるヤシマ作戦、破では数々の戦闘シーンがそうですね。映像の気持ちよさと勇壮なオーケストラのハーモニー。新劇場版になって最も力が入っている部分だと思います。
- 展開の妙。まあ要するにストーリーテリングの上手さと言い換えてしまって構わないです。
- キャラ萌え。2014年にもなって萌えとか口にしたせいで死にそうです。まあゲンドウ氏に寄り添って観るのがちょうおもしろいですよね、などと。
- エヴァの新作であること。まあ上の3つは別にエヴァに限った話じゃなくて、エンターテインメントの映像作品ならまあ大抵言えると思うんですね。ただ、新劇場版は勿論、エヴァの新作である。良きにつけ悪しきにつけ、これが一番肝要となってしまっているわけです。エヴァの関連作品は山ほどあるし、まあ二次創作も山ほどある。違ったように語り直すことを公式もファンも10年単位で続けてきた。そういう作品の、公式サイドが制作するアニメーションの新作劇場版であることそのものに無上の価値があって、漫然と観ていてもなお「あっ、ここはこう変えてくるんだ」「そこは省くのか」「えーそういう展開にしちゃうの」というようなツッコミが脳内を埋め尽くすわけですね。ましてや考察厨なぞ大歓喜。またぞろ公式が謎を散りばめてくれたわけですから。
- と、まあ便宜上4つに分けたわけですが、実際にはこの4つはそれぞれ緊密に連関していて、たとえば序のヤシマ作戦における(旧)ラミエル氏が新作ではこんなにも千変万化に変形するのかという驚きは、「視聴覚の快楽」と「エヴァの新作であること」の双方から得られるわけです。新作なので絵が今風で嬉しい、よく動く、3Dスゴイ、などというのもこれ(異論はあるけど)。あるいは破の中盤の面白さというのは、「展開の妙」としての人間関係の変化でもあるし「キャラ萌え」としての綾波にユイの面影を見てしまって食事会にOKを出すゲンドウ氏でもあるし「エヴァの新作であること」としての人間関係の置き換え――加持にまとわりつかないアスカ、ゲンドウへの執着の表れとして綾波を傷つけることのないリツコ、でもあるわけです。
- 余談ですが「視聴覚の快楽」でゴリ押しするけど「展開の妙」がイマイチというか上映時間が長すぎてうんざりする、というのがたとえば『トランスフォーマー/ダークサイド・ムーン』だったんだと思います。
- 俺もたいがい話がなげぇな。何が言いたいのかというと、新劇場版の視聴というのは、1回目2回めくらいはおもに「エヴァの新作であること」への大興奮によってクソ面白く感じられるんですね。満足感が残る。ただこれって新鮮さへの驚きなので回を重ねるごとに減衰していく。見落としていた事実や解釈の新発見に対する喜びを上回ってゆく。そしてだんだんと「展開の妙」への不満が顕在化しはじめる。とりわけ序の前半がつまらないと言われるのはこのためで、なにせテレビ版のダイジェストであるし、そのダイジェストにするために切り落とされた要素(独りサバイバルごっこに興じるケンスケ氏との遭遇など)にリアルタイムで思い当たってしまうのだから、不満は鬱積していくわけです。制作側の新しい解釈の提示に「そこはそうじゃないだろう、奴らはエヴァの美点をわかっちゃいない」と。
- テレビ版の方が優れていたと思うんですよね。展開の妙、アイディアにおいては。そうした比較を問題としないのが新劇場版という企画なのかもしれませんが。
- まあ原理上の問題として作り手の方が作品の魅力の源泉、要点を弁えかねている、というのは往々にしてあることで、たとえば破の参号機戦。以下はインターネットの人の受け売りを僕なりに肉付けしたものですが、テレビ版のシンジ君(当方は失われた90年代の子供を自称しているのでシンジ君のことはあくまでシンジ君と呼びます。わかりますか)は旧参号機であるところの現使徒を、(誰だかわからないけど)人が乗っているから戦えない、と拒否するわけです。実はトウジが乗っているわけですが、シンジ君はそのことを知らされていないので、ただ知らない誰かを傷つけたくないと言う。けれども破のシンジ君は、アスカが乗っているから、と拒否する。テレビ版にあった倫理性――他者一般を傷つけたくないという信念が、新劇場版ではスポイルされてしまっている、と。なるほどと思います。
- 個人的な推測としては、テレビ版における制作側の演出意図は、シンジ君には知らされていないが視聴者は知っているある重要な事実を展開のカギとすることで観る者の心情を否応なく盛り上げることにあったのではないかと思うんですね。参号機にトウジが乗っていることをシンジ君だけが知らない。知らずに、今や使徒と成り果ててしまったそれとの戦いを拒絶するが、これも知らず搭載されていたダミープラグの操作によって何も出来ずにトウジが傷つけられるのを座視する結果となってしまう。うーんこうやって要約してみても大概ひどい話だ。
- ところでこうした演出を新作においてやろうとしても、当然ながら旧作などでネタバレ済みの視聴者には通じないわけですね。まあ知っていようといまいと鬼気迫る視聴覚演出はそれだけで心に重くのしかかるわけですが、制作側が選んだのはただ引き写しにするのではなく、より積極的な改変であったと。すなわち、トウジをアスカに置き換えるとともに、その事実をシンジ君にあらかじめ知らせておくと。そのためには件の倫理性を切り落とすこともやむを得ない、あるいは最初から問題にもしていない、ということだったのではないかと。
- 破はテレビ放映のたびに加持さんのスイカ畑エピソードとトウジがアイスの棒を見て「ハズレかいな」って呟くシーンがカットされて大変アレなわけですが、たぶんテレビ放映って少なからず初見者、旧版を知らない人を対象に狙っているはずで、そうするとトウジが「アタリ」だった可能性があることも当然知らないわけですから後者についてはカットする一応の説明は立つのかな、とかなんとか。
- ぞろぞろ書いてみて気付いたんだけど破というのは多くの要素が緊密に結びついていて、アスカの望まぬ退場がクライマックスにおけるシンジ君の「綾波だけは助ける」(勿論ここでは助けられなかったアスカのことが強く意識されている)を後押しする動機のひとつとなっているので、尺のつごうからもシンジ君は参号機のパイロットがアスカであることを初めから知っていた方が手っ取り早くてよい、ということになるのか。うーむ。
- 随分話が逸れてしまった。何を主張したかったのかというと、Qはつまらん、ということなんですね。これはあらかじめ約束されている。序や破が観れば観るほどつまらなくなってゆき(なにせ展開の妙なんてものはあんまりないし)、最終的に個別のシーンの映像的快楽ばかりが残るように、Qもそうなることは目に見えている。ただでさえ色々な部分(脚本やらヴンダーの戦闘シーンの映像やらマリの扱いやら)がヨレている映画なんだから。
- なんでこんな不愉快な意見をインターネットにばらまくのかといえば、Qのテレビ放映でまたぞろ荒れそうだからですね。予防線を張っておくに越したことはない。
- 劇場公開時にはテレビ版からの生き残りがさんざん「これこそが、この訳のわからなさこそがエヴァ」とかのたまって「俺は積極的にこれを評価するポーズ」を取ってましたが、アレも大概防衛機制ですからね。かつて、魅力的にばらまかれた謎と沈みに沈んでいった展開がまっとうに回収されると信じて、そして裏切られたサバイバーの成れの果てに過ぎない。まあ当方もリアルタイムで体験してたら大概発狂したとは思うのでそんなに悪くは言えませんが、言い換えるとリアルタイムで体験してないので同情する気はない。
- でまあその人たちが、本当は初めからうすうす気付いてたけど目を背けてきたQのつまらなさに向き合わざるをえない時、あるいはとっくのとうに気付いていたそのことに、気付いていた、と明言して構わないような「空気」が出来する時が来てしまったのではないかと。テレビ放映の一斉ウェブ実況という暴力によって。考え過ぎならいいんですけどね。
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- AYNIKはストウィチでした。ゴジラはビビオペでした。2014年はいったいどうなってしまうんだ……!(挨拶)
- そうしてゴジラ観てきたので感想。内容に言及しています。
- ざっくりハワイ辺りでぶっつり切れてて、まるで別の映画を2本接合されたかのような気分になれます。それでもいいのならまあ。
- 脚本の問題は措いといても映像の部分においてIMAX 3Dで観てよかったとまでは言えない。そんなに何もかもがスクリーンのこちら側に飛び出してくる映画ではなかったので。AYNIKなんかはぜひとも3Dで、という出来なのだが。
- まあ前半はぶっちゃけ震災(作中の水準ではそうじゃないけど)映画になってて、今このタイミングで俺が観るから面白い、というのは多分にあります。日本のウソ大都市に隣接するアメリカっぽいフォルムの原発が地震でウソっぽく崩壊したり、ハワイにリアル津波(車だの木だのガレキだの人間だのあらゆるガラクタを巻き込んだ黒い塊)が押し寄せて人間がガンガン呑み込まれたりするさまが、一度フィクションの側に回収されたうえで提示されるからクソ面白い。善悪の話は知らん。
- この点でフォードの親父という人は被災者遺族のひとつのありようとしては極っていて、社会的に隠蔽された真相を究明しようとするあまりに息子からはキチガイに見える。新聞やらなにやらのスクラップに埋め尽くされた自室の壁面は雄弁に物語る。(ごく個人的な話をするなら)似たようなタイプの肉親を持つ者として、息子氏の苦悩は察して余りあるというものです。
- うーんまあそれでなんだっていうと、後半の筋書きはよくあるびみょーな出来のハリウッド映画なので別にどうでもいいです。ゴジラとムートーの闘いの目撃者とする「ために」息子氏が軍隊の規則を突破して核ミサイルを運ばされたり解除に行かされたりするように見えてしまうのでどうにも退屈で。
- とはいえ怪獣バトルの方は大変よかったです。終盤まで引っ張っただけのことはある。今回のゴジラの顔がちょいゴリラっぽいのは元ネタ重視だったんでしょうか。個人的にはもっとすらっとした平成版のが好みですが。ムートーも鋭角的な顔つきが好感度高めでした(初登場時、ゴジラのキャラデザ随分変えてきたなーと勘違いしてしまったのは余談)。
- 総じて、画面は本当によく出来てたと思うんですよね。怪獣の巨大さ、制御できない力強さの表現。日本の廃都市のイメージ。警察や消防のけしてスタイリッシュではない不穏なカッコよさ。後でも書くけどエアボーンの天使降臨。などなど。
- それにしても渡辺謙はハカセって顔じゃないよなあ。なぜこのおっさんの下手くそな英語を2時間も聞かされにゃならんのだという感想はある。
- ちなみになんでビビオペなのかっていうと電磁パルスで電気機器が使用不能になって飛行機がガンガン落ちたりするからなんですが(それ引用元が同じってだけやん)、もうひとつ、まあこっちも多分パロディなんだけどエアボーンするから、というのがあって、退屈な後半にあって唯一と言っていいほど、人間側の描写としては鮮烈な美しさがありました。天使降臨。
- ついでにAYNIKがストウィチなのは人外の敵にパワードスーツで立ち向かうのと、ダウンフォール作戦(欧州反攻)ですね。
- まあまとめてみるとみなさん別にこの映画観に行かなくていいと思いますよという感じなのだが、キスが人類を祝福する映画だったという与太を述べて締めにしようかなと。冒頭とラストで2回、再会の喜びにキスする主人公夫婦。ムートー妻の口に放射能火炎をゼロ距離で叩き込むゴジラ。
- ざっくりハワイ辺りでぶっつり切れてて、まるで別の映画を2本接合されたかのような気分になれます。それでもいいのならまあ。
- 追記。
- 脚本そんなに書き直したのか。そりゃあまあ、このとっ散らかった構成、国境を越えて色々な客の顔色を窺ったような展開になるのも無理ないわ、とは思わないでもないが、ハリウッド映画では数人のライターが関わるのは普通のことと聞いたこともあるし、うーむ。
- カットを繋ぎ変えて大胆に再編集すれば大分マシになる気はしないでもないんですよね。家族の話をもうちょいブラッシュアップして、フォード氏のポジションを本当にただの人間(息子であり父であり夫)にするか、あるいは思い切って超人・天使の側に寄せてしまうかして。
- 日本の都市なのに名前が「雀路羅」ってなんなんだよって向きがあるようで、検索するとどうもタイ語あるいはインドの言葉っぽい(サンスクリット語っぽい響きだなーと思ったけどどうもアラビア語から入った語っぽい。アルジャジーラ=島。かの有名な衛星テレビ局と同じ名前。雀路羅の方は、臨海都市ではあったけど島かどうかは記憶が定かでない)、まあ元記事にあるように「呉爾羅」に掛けたのかもしれないし(ちなみにオリジナル版は未視聴)、あるいは実在の都市と被らないよう配慮したのかもしれない。ただ、ギャレス・エドワーズ監督はタイの津波にも言及していて(これが2004年のスマトラ島沖地震のことなのか、あるいは2011年の洪水のことと混同しているのかはよくわからないけど)、リンク先の発言からも察することができるように、イメージを日本の2011年の震災だけに限定する意図は無いんだろうな、とは思います。さすがに一緒くたにするのは無茶な気もするけど、ハワイの津波のシーンは南国のビーチを襲う恐慌、という点でスマトラを想起させるものだったし。津波が市街地に入ってからはアメリカっぽい街並みを水とガレキが舐めるようになっていて(実際にホノルルでロケしたのかは知らない)、向こうの観客にとっての迫真性も拾える選択だったのかな、とは。
- 脚本そんなに書き直したのか。そりゃあまあ、このとっ散らかった構成、国境を越えて色々な客の顔色を窺ったような展開になるのも無理ないわ、とは思わないでもないが、ハリウッド映画では数人のライターが関わるのは普通のことと聞いたこともあるし、うーむ。
- 追記2(2014/09/02)
- 時間が経ってみると別に観なくていいとまでは思わなくなってきた。少なくともこうやって書き散らす楽しみはあったので。
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ここしばらくの間に観たアニメと映画の感想。
明日は『ALL YOU NEED IS KILL』を観てきます。
- 『CLANNAD』(テレビアニメ版)
- 18話(渚ルート確定回)で止まってたので今更ながら残りをAFTER STROYまで。
- 中原麻衣アニメという感じだった。
- それはさておきゆきねぇと結婚したい。
- 原作は発売日に買った初めてのゲームで結構な思い入れがあるんですね。フルボイス版でもう一度やってみたくなりました。
- 通していえばそんなには面白くなかったです。
- それにしても18話のラスト、(自分ではなく)渚が選ばれたことを悟って号泣する椋なんですがアヘ顔にしか見えなくて苦しみを感じる。
- ところで原作の話をすると、決定的な場面において男性キャラクターの叫び、心中の吐露によって展開を大きく動かすとともにプレイヤーの心を揺さぶる、という手法はまあリトバスのRefrainにおける恭介のそれの話なんですが、実は渚ルート(分岐手前だったかもしれん)の演劇における古河の親父の乱入もそうだったのかな、と。声優の演技によって強める、という点では明らかにリトバスが画期ですが。
- 『マリア様がみてる』(実写版)
- 興味本位で手を出したんだけども、近年の和製実写映画にはよくあることなんですが撮影処理の風合いが苦手なので断念。デジタルの汚さばかりが目立ってしまって。
- 『戦場のメリークリスマス』
- 北野武出演作品その1。とはいえこの人の演技はまあひどかった。
- 代わりといってはなんだけども坂本龍一(ヨノイ大尉役)の怪演が光る。そもそもがホモセクシャルの陸軍将校、満州に飛ばされて二・二六事件には参加できず、という設定だけでお腹いっぱいで、もうこのひとひとりだけで伝奇映画作れるよという代物である。
- ローレンス氏(トム・コンティという人らしい)が安倍晋三とヒトラーを足して二で割ったような顔をしていて、けれども英国軍人なのでファシストではあるはずもなく、なんだか面白かったです。
- ジャンルとしてはまあニンジャ(≠忍者)映画で、仄聞するに「西洋人のぼくが見た西洋と東洋の摩擦衝突の光景」という体裁らしい原作を数十年語の東洋人のぼくが考えた西洋と東洋の摩擦衝突として映画化する、というまあ何重にも捻れた代物なわけです。うーんなんだろう、エドモント本田? ブシドーの行き過ぎた日本陸軍とか。差異を描こうとすると殊更に強調したくなる、なにせフィクションなので、というような。
- 熱帯のジャワが舞台なのに全然暑そうに見えなくて(俘虜のみなさんは衣服をはだけているのに)、多分これは演出と劇伴の勝利なんだろうな、と。かの有名なテーマ曲の氷質感。クリスマスだから暑くみせる気はないのだろう、と。
- 敵味方の関係を越えた友情、といった評価を目にするけどうーんこれ友情っていうんだろうか、という戸惑いがあって、まあ友情って必ずしも対等な関係において成立するもんでもないし、おかしくもないのかな。
- 『菊次郎の夏』
- 北野武出演作品その2。久石譲の劇伴に興味があったので。
- のっけから話が逸れて恐縮なんですが、最近の問題意識として、社会全体に広く普及している、人間の感情と認識をハックする手管のありようについて、というのがあって、卑近なところでは安い肉でも脂を注入するとちょうおいしいよね、とか一定の仕方で化粧を施すとあたかも美人であるかのように見えるよね、というところから果てはシナリオのしかるべきところでテーマ曲のオルゴールアレンジを流すと涙腺を決壊させられるよね、なんてことを考えていたんですが、要はsummerの旋律をパロったBGMが流れるゲームを2本ほど知っていてそのいずれにもある空想上の夏への郷愁を掻き立てることのみに特化したメロディが大変好きだからです。
- そういうわけでなんとなく感動物なのかと思ってたんですが、観てみるとこれが7割コメディでびっくり。それでいて押さえるべきところは押さえてあって、チンピラのクズの菊次郎氏(テレビアニメが絶賛放映中の松太郎氏にも似たものを感じるので軽度の知的障害なのかもしれん)と冴えない少年まさおくんの心の交流うんたらかんたら。
- 肩肘張り過ぎてなくていいなあ、と思ったのは、終劇後のふたりが交流を持つことは多分無いだろうし、菊次郎氏が「更生」するともどうにも思えない(多分これからも適当に因縁つけたりカツアゲしたり女房から貰ったカネを競輪でスッたりしつづけると思う)ところで。まさお君、お母さんは別の家庭築いちゃってたけど、ヘンなおっさんたちに沢山遊んでもらえてよかったね、くらいの抑制の利きよう。
- もうちょっと絞れるところはあるなあ、とは思えて、コメディパートはもうちょっと削ってもよかった気がする。特に前半、シーンとシーンの絶妙な繋ぎ方、詰め方が目に留まるだけに、後半のいくつかのギャグなんかは無くてもいいように思えてしまう。
- 昔の恩師が映画は90分でいい、最近のは長すぎると愚痴っていたのを今でも覚えていて、まあ半分は加齢で集中力が保たなくなっていたからだと思うんですが(当時すでに還暦を通過していた)、それにしてもやっぱり飽きが来てしまうもので。
- 北野武出演作品その2。久石譲の劇伴に興味があったので。
- 『蛍火の杜へ』
- 夏映画二連続。初々しいあやねるを賞味する目的で鑑賞。幼女もさることながらナレーション部分の素材そのままっぽい味わいも大変よろしかったです。
- 触るとか触らないとかって普段はそんなに意識されないもので、だからひとたび触れただけでアウト、と焦点化された途端に過剰に気になってしまうし、触っちゃダメって言われたら触りたくなるよね、というおはなし。どっちかといえば女子向けなのかな、という印象のすっきりしたキャラデザ色気のないぱんつ、肉欲の薄そうなイケメンという風合いでしたがよく楽しめました。
- 面は表情を変えないがゆえに時に素顔以上にありありと情念を語らせるなあ、と。演出の勝利。
- そんでまあ、なんでホタルなのかといえば、足早に姿を変えていく少女と、触れればすなわち消えてしまうギンの、それぞれのはかなさのことかな、と。
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『たまこラブストーリー』観てきました。ちょろっと感想。
(本篇の内容に触れてるし、しかもこれ読んでもどんな話かよくわからんと思います)
- 前提として、テレビ版『たまこまーけっと』は4話で脱落。
- つまり、おおよそのキャラは知ってる(チョイちゃんと王子はあんまり知らない)くらいの状態で鑑賞。したけど楽しめました。
- 尊みとうつくしみが存分に満ち溢れた映画でした。(俺ワード)
- 道路を挟んで真向かいの2階どうし、幼馴染で夜の糸電話。テレビ版からあったこの要素、考えてみると大変に美味しいんですね。叫べば届こう距離をあえて糸電話という、その子供らしさ、密やかで微笑ましい繋がりが。
- 夜に、というのが肝要で、何せ夜はふつうカーテンを閉めるものだから、通話の成立には双方の細やかな配慮が必要になる。だから一度すれ違っちゃうと延々すれ違い続けちゃう、という話ではあった気がします。
- 幼馴染のよさ、尊さというものが長らくとんとわからなかったんですが、ここ何ヶ月かでエミュレーションできてきた感覚はあって、つまり夜空に架かる糸電話の尊みですよ!尊み!(錯乱)
- ラスト、たまこが京都駅のホームまで持ってきた糸電話を、わざわざもち蔵に手渡してから投げさせていたように記憶していて、ああこれは誠意だなあ、と思ったわけです。あなたのメッセージを取りこぼさず、ちゃんと受け止めますよ、という意思の表明。バトントワリングにも重ねられて。
- 思い出したようにふつうの感想を書くと、糸電話・バトンなんかをはじめとるするテレビ版からのモチーフがふたりの関係のために適切に再配置されたうえで、幼馴染の初恋話として大変よくまとまっていて、つまりウヒョヒョーとの奇声を禁じえない。男の子女の子の感情をしゃぶしゃぶ(堪能)したい方にオススメです。
- モチーフといえば、餅であるわけですが(最低の発言)、そうそう、餅って老人が喉に詰まらせやすいんですよねえ。言うことなし。
- 映画が大変すばらしかったのでテレビ版のDVDを借りてきて5話から最終話まで流して、それで今この文章を書いてるわけですが、主だったネタとしては9話から拾っているのかな、というところで。あんこの友達が転校するのと、豆大の名前が豆大福と混同されるの。
- twitterの人がテレビ版観てなくても大丈夫、というので観に行って、実際大変宜しかったわけですが、まあやっぱり全部押さえたうえで観た方が大きく楽しめるとは思います。何も知らずに映画のOPを聞いたときはおおう京アニ男性ボーカルでロックとか妙に色気付いたな、などと邪推したわけですが、正体がわかってみればあの映画の中でも随一の赤面要素ではあって。
- まーけっととラブストーリーで何が違うって、一番違うのはデラがいないことだと思うんですね。あの鳥がいるとそれだけでコメディの側に引き寄せられていくので、ラブコメにはなってもラブストーリーにならない。1時間半以上の尺があるなら尚更。
- でも全く出さないのでは連続性を否定するようだし、映画の最初に南の島の3人のようすが見られたのは(観た時点ではよく知らなかったけど)よかったなあと。
- 合わせて、商店街のみなさんは適度に後景に退いて、たまこの心理に必要な示唆を与えるだけの装置と化し、学校の描写が相対的に増えて、ラブストーリーに絞りこまれていくと。ところで学校の話ですがかんなちゃんこんなに可愛いとは思わなかった。テレビ版でも片鱗あるけど、映画ではかなりクローズアップされてませんか。
- そしてみどりちゃん。当方は鑑賞中ずっと、みどりちゃんはもち蔵のことが好きなんだと思い込んでて、しかし一般的な読みではたまこのことが好きということのようですね。言われてみれば確かにそうで、でないとみどりちゃんがたまことの付き合いの長さ(小学校から)を主張するエピソードが浮いてしまう。
- 男1女2の三角関係なら女の好意の矢印は当然男に向いているだろう、という当方の無自覚な先入観がまたしても発露され、やっぱり根っこではヘテロ好きなんだなーとつくづく思い知らされる事案です(余談)。
- ただまあ、別にみどりちゃんがたまこともち蔵、両者に対してそれぞれ何がしかの好意を持っていても構わないわけで(描写を精査してないから厳密に成立可能かは留保するけど)、そうだとしたらもっと面白いなーと思ったわけです。何が面白いって、映画から数年を経て、もち蔵との結婚も視野に入っていたくらいのタイミングでたまこが夭折するとしましょう(母も若くして死んでるから別にありえなくはなかろう)。悲嘆に暮れるもち蔵とみどりちゃん。高校の友達らで集まってしんみりと思い出話から飲み屋をハシゴ、気づけばふたりきり、終電逃して宿代わりにラブホに雪崩れこみ、いつしか互いの傷を舐め合うようにセックス!うっかり寝てしまうわけですね(地元じゃねえのというツッコミは措いときねえ)。さっそく二人の関係に気付いてしまい、まだお姉ちゃんの喪も明けてないのに、と怒りと悲しみがないまぜになった感情に翻弄されてもち蔵を憎悪してしまう女子高生あんこ。彼らを複雑な目で見つめる豆大ら大人世代。というくだりまで書いたところでこれまんま君望や、と気付いてしまったし作品の感想より妄想の方が数段滑らかに筆が進む当方もたいがいどうしようもないと思いました(オチはない)。
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書きかけの艦これSS、その2。
これで最後。
国家神道SS
「国家神道は禁止! 禁止です!」
白昼の鎮守府に甲高い男の声が響き渡る。
廊下を駆けてゆく長身の影に誰もが振り返った。
誰だ、あれは。
否や、まさか。
提督だ――――。
「国家神道は禁止ったら禁止なんです!」
その目は虚ろ、近代史の闇を湛えるように昏く、どこまでも見通すことができない。
特定の誰かを捜すように視線を左右させる提督に、すれ違う艦娘は誰もが目を逸らす。
と、ここにたまさか通りかかったのは金剛型巡洋戦艦二番艦・比叡。
「新しい紅茶の葉、買っちゃった。お姉さま、気に入ってくれるかな……」
大きな期待と少しの不安に揺れる背中に、提督の血走った眼がぎょろりと向く。
「見つけた……。巫女服、見つけた……」
提督は殺気をあらわにして比叡の背後へにじり寄っていくが、あろうことか、お姉さまとのお茶会のことで頭がいっぱいの比叡は気がつかない。
とうとう真後ろに回ると、提督はその長い腕を伸ばす。
「――――ひ、ひえーっ!」
巫女服姿の艦娘の悲鳴が辺りにこだました。
*
「被害報告はこれまでに三件。いずれのケースでも服を剥ぎ取られるだけで、ケガなどはないそうです」
艦娘寮ミーティングルーム。集合した有志を前に、霧島が状況の報告を行う。
「だけ? だけとは何ですか。白昼堂々素っ裸にされる辱めを受けて『だけ』と言うのですか、あなたは!」
言葉尻を捉えて食ってかかったのは山城。比叡に続く第二の被害者である。扶桑姉さま以外には見せたことなかったのに、とぐちぐち続けている。
「ごめんなさい、失言だったわ。でも身体を傷物にされたわけではないと聞いて安心してるの。信じてちょうだい」
平謝りになる霧島だが、実はこの人こそ比叡・山城に続く第三の被害者(未遂)であった。というのは襲撃者の殺気を事前に察知し、すぐさま砲撃を加えて難を逃れたからである(現場の鎮守府庁舎は半壊した)。直後には全裸で気を失って倒れていた比叡を見つけて寮まで連れ帰った。その比叡は自室で寝込んでおり、今は雪風が付き添っている。
扶桑にそっと抱き留められた山城が落ち着きを取り戻したのを横目で見ながら、霧島は話を進める。
「さて、当面の対策を話し合いましょう。まず艦娘ですが、すでに全員とも、この寮に収容済みです。なるべく大勢で部屋に集まって、建物の外には出ないよう周知しました。大型艦を中心に有志で見回りと捜索も行なっていますが、今のところ目標の発見には至っていません」
国家の暴力装置の花形、一個体が対艦兵装たりうる艦娘が、たかがチカン相手にずいぶんと大袈裟な対応ではないか。そう思われる向きもあるだろう。だが翻ってみれば、それゆえの過剰反応とも言えた。歩く凶器、護国の要、であるがゆえに彼女らは性的欲望を突きつけられることに慣れていない――誰がそんな命知らずなことをするだろうか。ゆえに、ある意味では最大の弱点。
【中略】
「それで、あの男は何て言ってたのネー?」
ここまで部屋の中心で黙って腕を組んでいた金剛が口を開く。けして「提督」とは呼ばないあたり、すでに見下げ果てたとみえて、その目は怒りに燃えていた。
「時間と場所をわきまえろって言ったノニ~! どうしてワタシのところには来てくれないデース! 許せナーイ!」
怒りは怒りでも、他の娘とは少々焦点が違うようだった。
「金剛姉様は本命だから、きっと最後に残してあるんですよ……。それで、私は声を聞くまえに撃退したので知りませんが、比叡によると『コッカシントー』とか言ってた気がする、と。何でしょうね、『コッカシントー』って」
山城も同じ声を聞いたらしく、こくこくと頷く。
【中略】
「まるで羅生門みたいね」扶桑が呟く。
「当事者の主張が矛盾してるところが、ですか?」
「あら山城、それは『藪の中』じゃなかったかしら」
「映画はそういう話なんですよ」
【中略】
「あー……陰陽道はOKとします」
【中略】