東部市場前

過去から来た猿

Angel Beats! -1st beat-』の発売日も決定するとともにアニメ版のBD-BOXも発表され、さらにはアニメ『Charlotte』の放映も決定した2014年の年の暮れ、年も明けぬうちから大変めでたい今日このごろ、皆様いかがお過ごしでしょうか(挨拶)。
今年はSSを書いたり書くのをやめたり艦これをやめたり読書をしたりしなかったりしていました。まあ何とか生きてます。
まあせっかくなので今年読んだ本の紹介でも。時系列順です。

雲のむこう、約束の場所

雲のむこう、約束の場所

しょっぱなからコレかよ。ええコレです。
端的に説明すると、アニメ版はオールタイムベストで1本挙げろと言われたら間違いなくコレ、という自分の中ではそういうポジションの作品。
ところで新海誠作品のノベライズといったら、『ほしのこえ』のように無難一方だったり『秒速5センチメートル』のように端的に退屈 本業の作家でないわりにはまあ書けてる ファンアイテムだったりとそんなによい印象がなく、そもそもメディアが異なる以上仕方がない部分もあるんだけども(新海誠のアニメーションのあの詩情を小説で表現するのは難しかろうし、あるいはミカコのその後、なんていった散文的な事柄は小説だからこそ書ける/書かざるをえない)、意外やこれは大当たり。
あくまでもヒロキ視点の叙述によって、時にはアクロバティックな処理を導入してまでアニメ版の話の筋をしっかり追いつつ、要所要所で引用される宮沢賢治の詩(アニメ版序盤の「永訣の朝」にとどまらない)の存在感や、オリジナルエピソードとしてタクヤとの想い出にもしっかり尺を割くことで独自の魅力を獲得している。
(もっとも、この過去エピソードの存在、加えてサユリとの「その後」の始末の描写――これがまた正しく村上春樹的で、著者は本当にいい仕事をした――を踏まえるなら、アニメ版とは別物と見なした方が適当だろう。)
白一色のカバーに銀箔を抜いたタイトル、という取り合わせの装丁もこの作品らしい。当方は古本で入手したのでやや汚れが付いてしまっていて残念。

数ある『艦これ』関連のコミカライズで1本選ぶならこれ。
特定のモチーフを軸に艦娘をフィーチャーした短編を、その名と精神を引き継いだ自衛艦の紹介で締めるという、まあ言ってみれば艦これファンを海上自衛隊艦船趣味に引きずり込もうという試みは、悪く言えば海自を頼まれもしないのにプロパガンダしちゃう漫画とも取れてしまうわけで、旧軍と海自、この2つの組織の間の建前としての断絶と、その陰にある実態としての連続性の問題にややもすれば触れかねず、太平洋戦争と海軍をモチーフにしながらあれほど巧妙に政治性から手を引いていたゲーム(暁の水平線に勝利を刻む、というフレーズは勇壮でいて、日の丸と青い海以外の何のイメージをも喚起しない)のプロデューサーにしてはやや意外の勇み足、に見えないでもない。
まあそれはそれとして、横に流々と流れる印象のある戦闘シーンの美しさですね。独自解釈を固めることをあんまりせずに、抑制の利いた描写が続くのも好感度高し。
あとモブとはいえ綾波敷波の登場頻度が高いというこれ一点だけで神。メイン回待望してます。

2作品続いて『艦これ』です。ノベライズで1本選ぶならこれ。
築地俊彦は『まぶらほ』長編パートのしょっぱい魔法バトル展開がどうも印象強く、正直言ってシリアスを書く作家としては全然評価してなかったんだけども、申し訳ありません、私の目が濁っていました。
話の枠組みは言ってしまえば愚連隊更生物、一山いくらの駆逐艦娘の中でもさらに落ちこぼれの奴らが新しくやってきたリーダーのもとで徐々に団結し活躍を見せる、というある種の定番ではあるんだけども、その中で活写されるそれぞれのメンツの個性や想いや何やら、鎮守府のけして派手さのない生活の描写なんかがこう、腑に落ちるんですね。要するに肌に合う。
あるいはまた、二次創作シーンウォッチ的な興味から言えば、曙・潮は明らかにこの作品で人気爆発したように見えて面白い(もちろん両名とも以前から根強い人気はあったし、潮についていえば比村奇石のファンアート活動もそれなりの影響があったような気はするが)。だいいちそれをそう言うなら霰とかもそろそろ人気出ていいのでは。アッハイ。

  • 境田吉孝『夏の終わりとリセット彼女』(ガガガ文庫

夏の終わりとリセット彼女 (ガガガ文庫)

夏の終わりとリセット彼女 (ガガガ文庫)

すべての自称クズ必読。
クズの自覚がある人なら精神に揺さぶりを掛けられ貴重な読書体験になると思います。
ライトノベルの主人公に俺TUEEEを期待する向きなら読まないが吉。

ある意味で、みなさんの本当に見たかったビビッドの結末がここにはある。
アニメのあの最終回に呆然とし、あるいは釈然としないものを残したすべての人に読んでほしい。
カラス氏をはじめとするいくつかの設定の読み替えがもたらす幸福な結末。
これぞ二次創作。

小倉唯写真集 yui memory

小倉唯写真集 yui memory

恥ずかしながら、初めて購入した写真集です。
当方グラビア全般が(というかリアル人間の画像が)とんと受け付けなく、けれどもこの写真集にはその苦手意識を押しのけてまで買わせる何かが、そして満足させる何かがありました。人はそれを霊感などと呼ぶのでしょう(あるいは気が変になってしまったのだと)。
小倉唯は実に尊い。

蠅の王 (新潮文庫)

蠅の王 (新潮文庫)

のっけからあんまり関係のない話をすると、昔日のインターネットでは『SWAN SONG』を『蝿の王』のパクリ扱いするというよくわからん風潮がありまして、『蝿の王』未読者の当方ははーふーんそうなんかーと思いながら過ごしているうちに月日は百代の過客、あの頃あのへんで瀬戸口廉也サイコーとか言ってたみなさんもどこかに消え失せてしまったりあるいは晩節を汚し醜態を晒したりしている昨今でございますが、読んでみるとあれね。「サバイバルで殺し合い」以外大して似とらんというか、この程度の共通性だけでパクリ扱いなら『バトル・ロワイアル』も『蝿の王』のパクリやん、という非常に知能の低い思考に耽ってしまいました。ちなみに『SWAN SONG』自体はマキャモンの同名小説からの影響の方が遥かに大きいかと思います(当時この本を貸してくれた知人に感謝)。
閑話休題。当方、児童文学のあのある種の丁寧さをはらんだ文体が大層好みであるので、そうした文体でこうした話が語られるとこれはもう最高ということになるわけです。
サバイバル小説として語るなら、実のところこれはサバイバル小説ではあんまりなく、何せ食料それ自体はあんまり問題とされない。たんに資源の欠乏から殺し合いに発展する、わけではけしてないところが肝であるなあと思いました。

  • 高田大介『図書館の魔女』(講談社

図書館の魔女(上)

図書館の魔女(上)

上下巻計1400ページ超の大部。読み通すのに半月を要した。奇書と言ってもあんまり差し支えあるまい。
あえてジャンル分けするなら、初期近代地中海世界風異世界ボーイミーツガール言語学安楽椅子探偵ファンタジー、とでも言えばいいのか。
主人公・マツリカとキリヒトのこそばゆい関係性に胸をくすぐられながら読むもよし、さまざまなレイヤーで、あるいはマツリカをはじめとする登場人物の口を直接に借りて語られ、あるいは章の大枠として、出来事と出来事の連なりによって示唆されたりもする、図書館の、知の体系の前にひれふすもよし。
こう、文章ではうまく魅力を伝えにくい小説であるので、とりあえず読んでくれとしか言いようのないところがある。
(いま調べたら来月にシリーズ新作が出るらしい。歓喜。)

  • イザベル・アジェンデ『精霊たちの家』(池澤夏樹=個人編集 世界文学全集)

こちらも600ページ近くの大部。この2作は毎日帰宅してから数十ページずつ読み進めるのが本当に楽しくてならなかった記憶がある。
当方文体厨ゆえ、語りの豊かな文章であればあるほどよいと思っている節があって、本作はラテン・アメリカの三世代にわたる家族の(女と男の)年代記なんだけども、次から次へと語られる奇妙で面白いエピソードの数々にページを繰る手が止まらなかった。語りの巧さ、なんだろうと。
ただ、結末において彼女が出す「結論」には読後、今に至るまでずっともやもやしたものを抱えたままでいて、ある意味では仏教的もあるその思想の境地は、しかし紛うことなく非人間的な高みであって、しかしそもそも至ってしまった状況が非人間的であるのだからこれに対応するためには非人間的な強度を持った認識で対峙するしかなく、けれどもそれではどうにもならないじゃないか、「問題は解決しない」じゃないかと思ってしまう。
たぶんこの、「問題を解決する」という思考がすでにして西洋近代的な理性の賜物であって、ラテン・アメリカは、マジック・リアリズムはそうではない、ということではあるのだろうけども。

戦場のメリークリスマス―影の獄にて 映画版

戦場のメリークリスマス―影の獄にて 映画版

戦場のメリークリスマス』の原作。
映画の後に読んだせいもあって、良くも悪くも映画の影響から免れずに読んでしまった節はある。要するにハラ軍曹が出てくるたび、北野武の顔が浮かんで離れない。
短編三部作のうち、一押しは「種子と蒔く者」。どうにも安直にキリスト的なモチーフに寄りかかりすぎているきらいはあるけども、出来た兄――美男に生まれついてしまったがために周囲の期待のまなざしでがんじがらめになってしまった男と、不具だが歌の上手い、繊細な美しさをもった弟の葛藤、離別と和解のプロセスは胸に迫るものがある。
余談ですが、現在新品で手に入る上掲の版はどうもオンデマンド印刷らしく、文字フォントのムラや誤植がそこそこ酷いので、購入する際は要注意。できれば現物を確認してから買うことをおすすめします。

  • ジュノ・ディアス『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』(新潮クレスト・ブックス)

オスカー・ワオの短く凄まじい人生 (新潮クレスト・ブックス)

オスカー・ワオの短く凄まじい人生 (新潮クレスト・ブックス)

ドミニカ系アメリカ人でオタク、体重100kg超(作中で変動アリ)のオスカーがモテなくて苦しむと、まあ要するにそういう話ではある(少なくともそのようにして始まる)んだけども。
いろいろな切り分け方のできる、それだけでも傑作ではあって、デブのオタクでワナビ、にもかかわらず恋多きオスカーの苦しみなんかはまるで他人事ではない(いやホントね)。次から次へと繰り出されるアメコミや小説や映画やアニメのタイトルなんかは一時期流行ったポップな文学の手法を、あるいはオタクネタ漫画なんかの過剰さを連想させる(第1章のタイトルが "GettoNerd at the End of the World "だなんていよいよ出来過ぎでしょ)。
あるいはまた、描写の対象がオスカーから彼の姉、母へと移るにつれて、これは親子関係の不全がもたらす世代間の不幸の再生産としても読めるようになる。ネットジャーゴン風にいえば彼の母は毒親なんですね。娘との苛烈な対立もそうだし(どうもドミニカ人の文化としてそうした風潮があるようでもあるが)、オスカーに勉強を強いる点、あるいは家に篭もろうとする少年期の彼を屋外へと追い出す点なんかは明らかにそう読めて、たぶんそれは本人の思春期の(致命的な)失敗への悔恨から来ている。来てるんだけども、おそらくはその育児方針を原因のひとつとしてオスカーは内向的なオタクに育っている。よくある光景ですね。
しかし、しかし。このように自分の話として、「わかる」「共感できる」話として安直に読める部分もあるんだけども、他方では明白にそうした共感を拒むようにオスカー・ワオは当方の前に聳え立つ。なんとなれば当方は日本人で、彼はドミニカ系アメリカ人であって、アメリカの学校において nerd であることの困難も、そのうえドミニカ系なのに恋に生きず nerd であることの生きづらさも、当方には想像はできても結局のところわかりはしないからだ。
あるいはまた、マジック・リアリズム。ドミニカに伝わる「フク」の呪い(ところで日本語だとフクがどうしても「福」と読めてしまって呪縛感がスポイルされてしまい、つらい)。独裁者トルヒーヨの権勢。こうしたものは当方にとりどこか余所事で、言ってしまえば『指輪物語』にかなり近い水準の、フィクションなのである。
こうした二重性、乖離が、しかして読書体験を豊かにする。「わかる」世界と「わからない」世界の往復と横断。たぶんそこに当方はこの話の深みを錯覚したんじゃないかと思うんですね。
まあつまりどういうことかっていうとだ。みなさん今すぐ書店に走りましょう(3年前の新刊をわが物顔でサジェストする人間)。

  • 筒井大志『ミサイルとプランクトン』(電撃コミックスNEXT)

全ロミオファン必読の書。
えーと原作田中ロミオなんですね。著者コメントにもあるように初めての漫画原作で苦戦した形跡は序盤の展開のこなれなさに確かに感じ取れます。けれどもそんなことは大した問題ではない。
はじめはC†Cかと思っていたら読み進めるにつれてイマ的でもある、今までのロミオ作品にあった要素を思わせるようなあれこれが違った組み方で提示されるワクワク感。
また、キャラクターフィーチャーなエピソード構成はエロゲーの個別シナリオのようでいてそれだけに留まらず、対象のキャラ格もエピソードの尺も自由に変化させながら進行していく。群像劇的なアプローチの構成を積み重ねていった果てにどんな光景が出現するのか、今からとても楽しみです。
そして眼鏡ヒロイン。ロミオ大好き眼鏡ヒロイン。まあ要するに全ロミオファン必読なんですね。


12作。まあこんなところでしょうか。
実は今年の後半から手を広げて、小説中心に気になる本はなんでも買い込むようにしておりまして、積み本が増える一方でメンタルに大変よろしくありません。本読みってのはこの切迫感と闘う一生なんですかね。
ともあれ皆様におかれましては、来年もよいお年を。