東部市場前

過去から来た猿

  • 昨日、エヴァについて話したりしたので散漫に再構成。文責は基本的に当方にあります。
  • 金曜ロードショーで序・破とやっていたので1,2年ぶりに再視聴。どうでもいいけど本篇の前と後のあのクソっくだらないナレーションは本当に殺意が湧きますね(どうでもよくない事案)。
  • で、まあ観てたわけですが、あんまり面白くねえなあと。まあ序ならヤシマ作戦、破ならアスカ様降臨(式波氏は海からではなく空からやってくるんですよ!)をはじめとしていくつか面白いシーンはあるんだけど、全体としてどうもそういう印象が残る。
  • なんでだろう、と考える前に「面白さ」を腑分けする必要があって、エヴァの場合、「視聴覚の快楽」「展開の妙」「キャラ萌え」「エヴァの新作であること」の4つに分けられるのかな、と。
    • 用語はテキトーです。適切な定義や命名があれば乗り換える用意あり。
  • 視聴覚の快楽。序におけるヤシマ作戦、破では数々の戦闘シーンがそうですね。映像の気持ちよさと勇壮なオーケストラのハーモニー。新劇場版になって最も力が入っている部分だと思います。
  • 展開の妙。まあ要するにストーリーテリングの上手さと言い換えてしまって構わないです。
  • キャラ萌え。2014年にもなって萌えとか口にしたせいで死にそうです。まあゲンドウ氏に寄り添って観るのがちょうおもしろいですよね、などと。
  • エヴァの新作であること。まあ上の3つは別にエヴァに限った話じゃなくて、エンターテインメントの映像作品ならまあ大抵言えると思うんですね。ただ、新劇場版は勿論、エヴァの新作である。良きにつけ悪しきにつけ、これが一番肝要となってしまっているわけです。エヴァの関連作品は山ほどあるし、まあ二次創作も山ほどある。違ったように語り直すことを公式もファンも10年単位で続けてきた。そういう作品の、公式サイドが制作するアニメーションの新作劇場版であることそのものに無上の価値があって、漫然と観ていてもなお「あっ、ここはこう変えてくるんだ」「そこは省くのか」「えーそういう展開にしちゃうの」というようなツッコミが脳内を埋め尽くすわけですね。ましてや考察厨なぞ大歓喜。またぞろ公式が謎を散りばめてくれたわけですから。
  • と、まあ便宜上4つに分けたわけですが、実際にはこの4つはそれぞれ緊密に連関していて、たとえば序のヤシマ作戦における(旧)ラミエル氏が新作ではこんなにも千変万化に変形するのかという驚きは、「視聴覚の快楽」と「エヴァの新作であること」の双方から得られるわけです。新作なので絵が今風で嬉しい、よく動く、3Dスゴイ、などというのもこれ(異論はあるけど)。あるいは破の中盤の面白さというのは、「展開の妙」としての人間関係の変化でもあるし「キャラ萌え」としての綾波にユイの面影を見てしまって食事会にOKを出すゲンドウ氏でもあるし「エヴァの新作であること」としての人間関係の置き換え――加持にまとわりつかないアスカ、ゲンドウへの執着の表れとして綾波を傷つけることのないリツコ、でもあるわけです。
  • 俺もたいがい話がなげぇな。何が言いたいのかというと、新劇場版の視聴というのは、1回目2回めくらいはおもに「エヴァの新作であること」への大興奮によってクソ面白く感じられるんですね。満足感が残る。ただこれって新鮮さへの驚きなので回を重ねるごとに減衰していく。見落としていた事実や解釈の新発見に対する喜びを上回ってゆく。そしてだんだんと「展開の妙」への不満が顕在化しはじめる。とりわけ序の前半がつまらないと言われるのはこのためで、なにせテレビ版のダイジェストであるし、そのダイジェストにするために切り落とされた要素(独りサバイバルごっこに興じるケンスケ氏との遭遇など)にリアルタイムで思い当たってしまうのだから、不満は鬱積していくわけです。制作側の新しい解釈の提示に「そこはそうじゃないだろう、奴らはエヴァの美点をわかっちゃいない」と。
    • テレビ版の方が優れていたと思うんですよね。展開の妙、アイディアにおいては。そうした比較を問題としないのが新劇場版という企画なのかもしれませんが。
    • まあ原理上の問題として作り手の方が作品の魅力の源泉、要点を弁えかねている、というのは往々にしてあることで、たとえば破の参号機戦。以下はインターネットの人の受け売りを僕なりに肉付けしたものですが、テレビ版のシンジ君(当方は失われた90年代の子供を自称しているのでシンジ君のことはあくまでシンジ君と呼びます。わかりますか)は旧参号機であるところの現使徒を、(誰だかわからないけど)人が乗っているから戦えない、と拒否するわけです。実はトウジが乗っているわけですが、シンジ君はそのことを知らされていないので、ただ知らない誰かを傷つけたくないと言う。けれども破のシンジ君は、アスカが乗っているから、と拒否する。テレビ版にあった倫理性――他者一般を傷つけたくないという信念が、新劇場版ではスポイルされてしまっている、と。なるほどと思います。
    • 個人的な推測としては、テレビ版における制作側の演出意図は、シンジ君には知らされていないが視聴者は知っているある重要な事実を展開のカギとすることで観る者の心情を否応なく盛り上げることにあったのではないかと思うんですね。参号機にトウジが乗っていることをシンジ君だけが知らない。知らずに、今や使徒と成り果ててしまったそれとの戦いを拒絶するが、これも知らず搭載されていたダミープラグの操作によって何も出来ずにトウジが傷つけられるのを座視する結果となってしまう。うーんこうやって要約してみても大概ひどい話だ。
    • ところでこうした演出を新作においてやろうとしても、当然ながら旧作などでネタバレ済みの視聴者には通じないわけですね。まあ知っていようといまいと鬼気迫る視聴覚演出はそれだけで心に重くのしかかるわけですが、制作側が選んだのはただ引き写しにするのではなく、より積極的な改変であったと。すなわち、トウジをアスカに置き換えるとともに、その事実をシンジ君にあらかじめ知らせておくと。そのためには件の倫理性を切り落とすこともやむを得ない、あるいは最初から問題にもしていない、ということだったのではないかと。
      • 破はテレビ放映のたびに加持さんのスイカ畑エピソードとトウジがアイスの棒を見て「ハズレかいな」って呟くシーンがカットされて大変アレなわけですが、たぶんテレビ放映って少なからず初見者、旧版を知らない人を対象に狙っているはずで、そうするとトウジが「アタリ」だった可能性があることも当然知らないわけですから後者についてはカットする一応の説明は立つのかな、とかなんとか。
    • ぞろぞろ書いてみて気付いたんだけど破というのは多くの要素が緊密に結びついていて、アスカの望まぬ退場がクライマックスにおけるシンジ君の「綾波だけは助ける」(勿論ここでは助けられなかったアスカのことが強く意識されている)を後押しする動機のひとつとなっているので、尺のつごうからもシンジ君は参号機のパイロットがアスカであることを初めから知っていた方が手っ取り早くてよい、ということになるのか。うーむ。
  • 随分話が逸れてしまった。何を主張したかったのかというと、Qはつまらん、ということなんですね。これはあらかじめ約束されている。序や破が観れば観るほどつまらなくなってゆき(なにせ展開の妙なんてものはあんまりないし)、最終的に個別のシーンの映像的快楽ばかりが残るように、Qもそうなることは目に見えている。ただでさえ色々な部分(脚本やらヴンダーの戦闘シーンの映像やらマリの扱いやら)がヨレている映画なんだから。
  • なんでこんな不愉快な意見をインターネットにばらまくのかといえば、Qのテレビ放映でまたぞろ荒れそうだからですね。予防線を張っておくに越したことはない。
  • 劇場公開時にはテレビ版からの生き残りがさんざん「これこそが、この訳のわからなさこそがエヴァ」とかのたまって「俺は積極的にこれを評価するポーズ」を取ってましたが、アレも大概防衛機制ですからね。かつて、魅力的にばらまかれた謎と沈みに沈んでいった展開がまっとうに回収されると信じて、そして裏切られたサバイバーの成れの果てに過ぎない。まあ当方もリアルタイムで体験してたら大概発狂したとは思うのでそんなに悪くは言えませんが、言い換えるとリアルタイムで体験してないので同情する気はない。
  • でまあその人たちが、本当は初めからうすうす気付いてたけど目を背けてきたQのつまらなさに向き合わざるをえない時、あるいはとっくのとうに気付いていたそのことに、気付いていた、と明言して構わないような「空気」が出来する時が来てしまったのではないかと。テレビ放映の一斉ウェブ実況という暴力によって。考え過ぎならいいんですけどね。