東部市場前

過去から来た猿

サイカノを再読する(数年ぶり数回目)。
当時極めて切実としていたのが、いまや分析的に読めてしまう、というのは悲しいことですよ。
まさしく、作者に言わせれば、「必要なくなってしまった」ってことなんでしょう(そうやってすぐナルシシズムに浸るのよくない)。

とはいえ、ちせは変わらず圧倒的にかわいく、シュウジは置き去りにされる男の子であった(陸上部なのに?)
そして誰も彼も相手を身代わりにしすぎであり、強固なプロットに裏打ちされているわけではない展開は引き延ばしにあらず、キャラクターの感情に寄り添った結果として互いに遠く離れた地点でまさにそのように繰り広げられる。

しかし、カタストロフ物ですよねこれ。

2012年に三大セカイ系作品なる概念を持ち出すという野蛮を犯すなら(まあ5年前も同じことやってたので5年後も同じことやってるでしょう、とはいえ5年前はギリギリ許されてた感があるけど今やとっくのとうにアレな感じはある)、まあこれは本当によく出来たラインナップで、たとえばメディアはそれぞれ漫画・アニメ・ライトノベル、ヒロインの戦闘手段はロボット・UFO(戦闘機)・機械化ときれいに分かれていたり、異星人との戦争は2作品、他国との戦争も2作品、ヒロインが薬漬けになるのも2作品、「風景」への意識が窺えるのも2作品、ポエジーなのも2作品、作者がエヴァ観てたのも2作品(多分)、スタンド・バイ・ミーごっこするのも2作品(そろそろ無理筋)、男の子が自転車で駆け回るのも2作品、男の子が女の子の散髪するのも2作品、エトセトラ、と各々のパラメータが実に相補的であるわけですが、同様に作者の真顔値を設定したとき「2作品でない方」になるのがこちらで、なにせ他の2つは戦略的なパスティーシュだけどもこれはそのつもりではない、少なくとも読者にそう信じさせるだけの強度はあるわけですよ。はい。

外伝。母性崇拝、トラウマ辺りの同時代的にベタなモチーフは短編である分こちらの方が色濃く出ていて今となってはさすがに時代を感じさせますね。
「わたしたちは散歩する」、さっきポエジーって言いましたけどもまあ新海誠高橋しんのそれは当然質的に異なっていて、実際後者のが率直で恥ずかしいぶん当時の純愛ブーム側に近いんですよね(というか直接的にはポストエヴァっていうよりかはそっち側から出てきた感がある)。そしてこの(途中まで)4コマ短編はその締めにおいて実のところ新海に接近している、というのは何気ない日常の、であるからこそ時にはエモくみえる事物の羅列という点で、もしかしたら形式上の制約によるものかもしれないにせよ興味深いわけです。
「世界の果てには君と二人で。あの光が消えるまでに願いを。せめて僕らが生き延びるために。この星で。」、高橋しんのポエジーとはまさにこれのことなんだけど(長すぎて入力がめんどいっつーの)、自らの凡庸さ、無力さを自覚しつつあえて中二設定を選びとる、という態度は先見性があったのかな、とか。それから、他の短編もそうだけど、カラーページの白飛びへの意識はやはり新海と通底するものがあると思う。

シュウジが自転車を使わないのは、まあ坂の街ってのもあるだろうけど、人間が自分の足で歩き、走ることを重視したかったのかな、と。彼が元・陸上部員なのは作者自身の投影だけではあるまい。
徒歩で移動するシュウジとちせの間にしばしば生まれる距離の提示だったり、あるいは必死で走り回る姿はそれだけで読者を説得する。多分、飛ぶ=人間で無くなる、という観念があるんでしょう。

アケミのキツさは作者の同世代の女子かな、とは思わないでもない。